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夏目漱石の小品に、「夢十夜」という連作短編がある。十の夢をまとめたという体裁の作品で、一つの夢が文庫本のページ数にして大体三ページほどの長さである。全部でも三十ページほどの小品だが、漱石の異色作として、研究者の関心を集めているともいう。またこの作品は、内田百閧フ「冥途」や泉鏡花の「高野聖」などと共に、日本の近代文学から編んだ「怪奇もの」のアンソロジーに収録されることも多い、幻想文学の白眉である。
ところで僕はずっと、この作品の最後の「第十夜」が、ホジスンの「異次元を覗く家」と少し似ているという気がして、気になって仕方なかった。ずっと、というのは、初めてホジスンの著作を読んだ高校生の頃からである。漱石の「夢十夜」は、中学生の時に読んだ。
問題の第十夜は、青空文庫のここで読めるので、そちらを参照して欲しい。また、第十夜は第八夜の続きのようにも読めるので、そちらもついでに読んでみるのもいいと思う。よい作品だし、短いからすぐに読めるので、この項目と関係なく、読んでみて損は無いと思う。
この二つの作品に共通しているのは、平原に切り込まれた断崖と、そこに群れてくる豚の化け物という設定である。キリスト教圏のイギリスではともかく、当時の日本では、今ほどは豚も一般的ではなかっただろう。そう思うと、このシチュエーションは、日本人が思いつくものとしては、いささか変わっているのではないか。おそらくは、どこからか影響を受けているのだろう。そう考えた。
その原典として、最も考えられるのは、聖書に出てくる「ガダラの豚」の故事である。詳しくは「ホジスンとキリスト教/ガダラの豚」の項目を参照して欲しいが、どういう故事か簡単に言えば、かつてキリストが悪霊を豚に封じ込めたところ、その豚二千頭が悪霊を体内に持ったまま河になだれ込み、溺れ死んだというものである。このことから、「ガダラの豚」とは、「悪霊に取り付かれた者」を指す慣用句にもなっている。ロンドンに留学していたくらいだから、漱石は当然この故事を知っていたに違いない。漱石の夢十夜に与えた影響元として考えられるのは、普通に考えれば、まずこれだろう。それに、そもそも牧師の息子だったホジスンの作品が、おそらくこの故事から影響を受けていると思われる。
だが、考えすぎと言われれば全く一言も無いのだが、僕はもしかしたら漱石はホジスンの作品を読んでいて、そこから幾らかの影響を受けたのではないかとも思った。根拠はないが、根拠らしいものならいくつかある。
まず最初に、二つデータを挙げてみる。
1・漱石が夢十夜を発表したのと、ホジスンが「異次元を覗く家」を発表したのは、ともに1908年のことである。
2 ・漱石が留学していたのは、1900年から1903年までで、ホジスンが最初の短編を発表したのは1904年である。
データのAから、漱石がロンドンにいた頃にホジスンの作品を知ったというのは、まずありえないことが分かる。可能性があるとしたら、帰国後に何かで知ったということくらいだろう。純然たるパルプ作家であったホジスンの作品を、ロンドンにいた頃ならともかく、帰国後に偶然知る機会があったなど、この時代にはちょっと難しいかもしれないと普通は思うだろう。ありえないことではないが、説得力には著しく欠ける。説得力を幾らかでも得るためには、その必然性を探さなければならないだろう。
そこで、データの1からもう一度検証してみる。何かが分かるかもしれない。
まず、漱石の「夢十夜」が「朝日新聞」に連載されたのが、1908年の7月25日から8月5日まで。ホジスンの「異次元を覗く家」がChapman
and Hall社から出版されたのが1908年の5月の第二週か第三週。(注1)二ヶ月ほどホジスンの方が早い。少なくとも、書かれた時期としての矛盾はないわけだ。それに、「漱石が読んでいたかもしれない」というタイミングとしては、結構いい線なのではないかという気がしなくもない。
時期としての可能性はあるとした上で、それでは次に、漱石がホジスンの作品を自ら手に取ろうと考えた可能性はあったかを考えてみたいが、これは結論から言って、「可能性は、あった」と断言できる。漱石のエッセイを見てみよう。
まず、手元にある新潮文庫版では「夢十夜」と同じ巻に収録されているエッセイ、「思い出すことなど」の第十七章の記述が目に付く。「朝日新聞」に1910年10月29日から翌11年の4月13日まで連載されたエッセイである。そこにはこう記されている。
臆病者の特権として、余はかねてより妖怪に逢う資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭どき鞭の下に萎縮するとき、余は常に幽霊を信じた。けれども虎烈剌《コレラ》を畏れて虎烈剌に罹らぬ人のごとく、神に祈って神に棄てられた子のごとく、余は今日までこれと云う不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起るが、平生はまず出逢わないのを当然と心得てすまして来た。
自白すれば、八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先の灯火を一時に寒く眺めた。一年ほど前にも「霊妙なる心力」と云う標題に引かされてフランマリオン(注2)という人の書籍を、わざわざ外国から取り寄せた事があった。先頃はまたオリヴァー・ロッジ(注3)の「死後の生」を読んだ。
死後の生! 名からしてがすでに妙である。我々の個性が我々の死んだ後までも残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉を換す。スピリチズムの研究をもって有名であったマイエルはたしかにこう信じていたらしい。そのマイエルに自己の著述を捧げたロッジも同じ考えのように思われる。ついこの間出たポドモアの遺著もおそらくは同系統のものだろう。
独乙のフェヒナーは十九世紀の中頃すでに地球その物に意識の存すべき所以を説いた。石と土と鉱に霊があると云うならば、有るとするを妨げる自分ではない。しかしせめてこの仮定から出立して、地球の意識とは如何なる性質のものであろうぐらいの想像はあってしかるべきだと思う。
このエッセイは、漱石が修善時で吐血し、生死の境をさまよった経験から書かれたものだ。この中で書かれているように、漱石は一時期オカルトに対する興味が深く、ホジスンに影響を与えたと考えられる天文学者、カミーユ・フラマリオンの著作も取り寄せて読んでいる。同エッセイでスティーブンスンの著作にも言及していることから、そうした小説を好んで読んでいたことも確かだろう。
また、漱石のノートによると、1905年頃から1906年頃にかけて集中的にコンラッドの海洋文学を読んでいるらしい(注4)。小説「二百十日」が、コンラッドの「颱風」の影響下に書かれたともいう。これは多分、ロンドンまでの船旅という航海経験があったから、海の文学というものへの興味がその頃に高まっていたのだろう。
どうだろう。オカルトに対する興味、フラマリオンなどの世紀末科学、そして海洋文学。まさにホジスンの作品そのものではないだろうか。しかも、時期的にも合っている。これだけの接点があれば、漱石がふと興味を持ってホジスンの作品を読もうと考えたとしても、不思議ではないのではないか。そんなふうに思えてはこないだろうか。
もちろん、漱石のエッセイや作品をどうひっくり返しても、ホジスンの名前は出てこない。だから、こうしたことはあくまでも推測、あるいは夢想に過ぎないのだが、そう考えるのも愉しいのではないかと思う。
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