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嵐の海から

William Hope Hodgson


 「静かに!」科学者である友人の研究室へ入っていったところ、彼はそう言って私を制した。私は話をしようと唇を開きかけていたが、そのまましばらく口をつぐんだ。
 彼は何かの器具に向かっていたが、その機械はでたらめなペースでメッセージを ─ しばらく止まってはまた激しく打ち出すという感じで ─ 叩き出していた。
 機械がいくらか落ち着くと、じれったくなっていた私は、彼に話し掛けようとした。
 「何か大切なことなのかい?」私は言った。
 「頼むから黙っていてくれ!」彼は張り詰めた高い声で言った。
 私は彼を見詰めた。彼がある種の特殊な実験に夢中になっているとき、時々ひどくぶっきらぼうな態度を取る事には慣れているつもりだった。だが、これはいささか行き過ぎだ。私はそう彼に言った。
 彼になにやら書き付けていた。そして、答える代わりにその書きなぐりのような紙を数枚私によこし、一言だけ言った。「読めよ!」
 私は怒り半分、好奇心半分でその紙きれの一枚目を取り上げ、目を落とした。数行を読んだだけで、私は心を奪われ、激しく惹きつけられていた。私は死に直面している誰かからの、最後のメッセージを読んでいたのだ。ここに、それを一語一語、書き付けてゆこうと思う。

 「ジョン、俺たちは沈みつつあるんだ!俺は、お前がいま俺たちが直面している瞬間を本当に理解しているのかと思うよ……なにせ、お前は快適な研究室の椅子に座っているのに、俺ときたら水の上にいて、死につつあるんだからな。そう、運命は決まったんだ。こうなっちゃあ、助かりっこない。俺たちは沈んでゆく……ずぶずぶと、無慈悲にも。ああ神よ!俺はしっかりと気を持って、人間らしさを失わないようにしなければ!俺が操舵室にいることは言うまでもないだろう。残りの奴はデッキにいる……さもなきゃ、船を粉々に砕いている、飢えたそいつ(注1)の腹の中にいるんだろう。
 ここがどこなのか俺は知らないし、尋ねようにも誰もいない。最後の航海士は一時間ほど前に波に飲まれた。もはや船は、強大な海と俺とを隔てている、ちっぽけな防波堤でしかない。
 一度、三十分ほど前のことだが、俺はデッキに出てみた。ああ神よ!ひどい有様だった。時間は正午過ぎだった ─ だが、空は泥のような色だった……分かるか?灰色の泥だ!そこに雲が、巨大な垂れ飾りのようにぶら下がっている。こんな雲はこれまで見たことがない。まるで、怪物じみた、カビまみれの皮のようだ。雲は、恐ろしい風がその下方の縁を切り裂いて中を探ろうとするのを食い止めようとして狂おしく渦巻いている、巨大な塊のように見える。まるで何か巨大な“恐怖の触手”の群れのようだ。
 この光景を生者に説明する事は難しい。……だが、海の死者には、俺の言葉なんかなくてもわかるだろう。こんな光景を見て、生きて帰ることを許された奴なんて誰もいない。これは死の運命という一枚の絵 ─ 海の、死の舞踏会の光景と……生者たちを見下ろす巨大なそいつの ─ なのだ。この光景の全てが、この世とあの世とのあわいにあると言っていい。俺はお前にそうしたことを正確に伝えることが出来そうにない。これを生者に伝えるということは、無垢な魂に地獄の秘儀を ─ 例えば子供に悪徳を ─ 伝えようとするようなものだからだ。だが、気にするまい!俺は海の忌まわしい“死の横顔”を、すべて白日のもとに晒そう。生者たちは知るだろう。死が常に傍らで見張っているという事を。そいつは、俺の手の下にある小さな器具が、お前と俺とをしっかりと、瞬時にして結びつけているということを知らない。さもなくば、死はさっさと俺の息の根を止めて、黙らせようと急いだだろうからな。
 聞け、ジョン!俺はこの死を待つ僅かな時間に、夢にも思っていなかった事を学んだ。俺は今、なぜ我々が闇を恐れるのか知っている。俺は今まで、海の神秘だとか墓だとかを(どちらにしても同じことだが)、そんな風に想像した事はなかった。
 声が届いているか!ああ、俺はお前が聞くことが出来ないという事を忘れていた!俺には聞こえている!海は……静かに!海が笑っているようだ……ケツの穴に口があって、そこから地獄の哄笑が響いているみたいだ。そいつは嘲っている。俺の耳の中ではその声が、頭上に広がる泥の真ん中からの、“魔王の雷”のように木霊している。それは俺に呼びかける……行くべき時だと……海の呼び声だ!
 ああ、神よ、あなたはまことに神なのか?あなたは遥か頭上から、俺がこうして眼のあたりにしている光景を、心を乱しもせずに眺めているのか?否!あなたは神などではない!あなたがまだ若くて力があった頃に創造した、邪悪なそいつに比べて、神よ、あなたはなんと弱くちっぽけに見えることか。今やそいつが神であり、私はそいつの子羊なのだ。
 そこにいるか、ジョン?どうして答えてくれない!聞いてくれ!俺は神などあてにしない。神(注2)などよりももっと強いものがここにいるからだ。俺の神はここにいる。俺の傍らに、周りに、そしておそらくはすぐに頭上にも来るだろう。それが意味する事はわかるだろう。神は無慈悲だということだ。今や、海こそが全ての神なのだ。それが俺の学んだことだ。
 聞け!また哄っている。神よりも神である、そいつが。
 そいつの呼び声に、俺はデッキに上がっていったんだ。だが全く酷い有様だった。中部甲板はもちろん……どこもかも。船は水浸しだった。かろうじて前甲板、ブリッジ、それに船尾桜だけが、荒れ狂い、悪臭を放っているそいつのなかに立っていた。まるでごぼごぼと音を立てながら泡立つ中に浮かぶ、三つの島のようだった。時々、巨大な波が船の両側から打ち寄せてきた。それは瞬時、船の上に掛かるアーチのような形をとり……すぐに崩れ、50フィートのゆがんだ水の天蓋が空にかかることになる。それが降ってくる時……耳を劈くような音を立てる。考えてみてくれ!出来はしないだろうが。
 大気中には悪意が満ちていた。それはそいつが振り撒いているのだ。砕かれてずぶぬれになった、木や鉄の小島の上に取り残された者たちの身には、さらに恐ろしいことが降りかかっていた。そいつは、彼らを唆していた。次に、俺はそいつの下劣な息吹が充満している事を感じた。しかし、おれはそこから逃げ出した……死を祈りながら。
 前甲板で、俺は母親とその息子が、鉄の手すりにしがみついているの見た。巨大な波が彼らの頭上から襲い掛かり、そのまま山のような海水が二人を打ちつけた。波が過ぎ去ったとき、彼らはまだそこにいた。そいつは彼らを弄んでいるのだけなのだ。……いや、それでもやはり、そいつは子供の手を手すりから引っぺがした。子供は母親の腕にしがみついて泣きじゃくっている。俺はさらに別の巨大な波の丘が、左舷の方から盛り上がり、彼らの上に覆い被さるのを見た。母親はけだもののように身をかがめて、おびえながら彼女の腕にしがみついている子供に噛み付いた。彼女は恐れていたのだ。息子の体重を支える事は、とても彼女にはできそうになかったから。俺の耳に、その子の悲鳴が、こんなに離れていてさえ聞こえた……残忍な笑い声に乗って。それは再び、神はつまりそいつなんだよと言っていた。そして波の丘は、雷鳴のような音を立てて二人の上に落下した。その様子はまるで、そいつが吼えながら飛び回っているかのように見えた。海水は吼え立てるように彼らの周りを洗い、ぐるぐるとうねった。そして波が引いた後、そこにはたったひとり……母親がいるだけだった。そして母親の顔は ― 特に口の辺りが ― 血まみれだった。…… けれども、距離があったから、俺にはそうだとはっきり言うことは出来ない。俺は目を逸らした。僕のそばには、別の光景が、美しく若い娘が(だが、悪魔に魂を売ってしまっているらしい)海図室のわきの避難場所をめぐって恋人と格闘しているのが見えた。恋人は彼女を突き飛ばしたが、彼女はまた戻ってきた。彼女の頭には頭飾りか何かの残骸がまだ貼り付いていたが、彼女はそれを掴み取ると、彼に向かって手を振り下ろした。彼は叫び声を上げて風下の方へ落ちていった。そして彼女は……歯を見せて、笑った。あまりの事だった。俺は目をそむけた。
 そいつの上、波の頂点のすぐ下に、恐ろしく、暗示的にも思える閃光を俺は見た。俺はこれまでそんなものを見たことはなかった。俺の目に、一人のたくましい水夫が船からさらわれて行く様子が映った。巨大な波が彼に食いついたのだ。それはまさに歯のようだった。波が歯を持っているのだ。俺の耳に砕ける音が聞こえた。それから、彼の悲鳴も。けれどそれは、辺りに響く海の哄笑の前では、蚊の叫びにも等しかった。しかしそれはとても恐ろしい事だった。死よりも恐ろしい事だった。
 船は吐き気を催すほどにうねり、奇妙なほど傾き続けている……。
 ……俺は眠ってしまったのか……いや……思い出した。船が激しく傾き、俺は頭を打ったのだ。
 俺の足は二倍に腫れている。恐らく折れているようだが、それはたいしたことではない……。
 俺はずっと祈っていた。俺は……俺は……けれど一体何にだ?俺は穏やかさを感じている。もはや身をゆだねよう。俺は狂いつつあるんだろう。俺は何と言っていた?思い出せない。何について……何に……。
 神よ。俺は……俺はあなたを冒涜したと思う。でも、神は許してくれるだろう!汝は、神よ、俺は正しい心でいられなかった。汝がご存知のように、私は弱い存在です。その時がくるまで、俺とともにあってください!俺は罪を犯しました。
 神よ、全てに慈悲を。
 そこにいるか、ジョン?もうまもなく終わりだ。言いたい事は沢山ある。けれども言葉は俺から滑り落ちてゆく。俺は何を言った?全部訂正するよ。俺は狂っていたんだ、そして……そう、神が知ってる。神は慈悲深い。だから俺はもう、ほとんど苦痛を感じていないよ。少し、眠くなってきたな。
 ジョン、お前がそこにいようがいまいが、いや結局のところ、多分、誰も俺の話なんて聞いていないんだろう。それでいいさ。生者にとって意味なんてない話だ……いや、わからないな。もしお前がそこにいるなら、ジョン、お前は……お前はことの顛末を彼女に伝えるだろうが、どうか、どうか、しないでくれ。ああ、静かに!雷鳴のような水の音が、まさに今頭上から。二つの巨大な海が中空で出会い、橋のようになって、船の上で砕ける。まもなくだ……まだ言い足りないことが沢山あるのに!風の声が聞こえてくる。歌っている。まるで荘厳な葬送曲のように……ちょっと、うとうととしていたようだ。謙虚になって、神に祈ろう。もうすぐだ。どうか……どうか彼女には何も言わないでくれ、俺が彼女に言ったかもしれないことに関してもだ。わかるだろう?俺が言いたいのは、それは言うべきじゃなかったということだよ。それは、何だっただろう?頭の中が混乱してきてるようだ。いったいお前は俺の声を聞いているのか?それとも外に向けて大声でわめいているだけなのか?だが、それは落ち着きもするよ。お前が俺の声を全く聞いていないと信じる必要もないんだからな。もう一度聞いてくれ!山のような水が船上をさらって行くに違いない。船は右に傾き……また持ち直した。でももう、もうすぐに……
 そこにいるのか、ジョン?お前はそこに?来るぞ!海が、俺を連れに!水が階段を駆け下りて来る。それは……それは激しい噴射のようだ!神よ!俺は溺れつつ……ある!俺は……溺レ……」

 

 

オンラインノベル

The Exploits Of Captain Gault
Contraband of War
The Diamond Spy

The Heathen's Revenge
The Riven Night

 

試訳

嵐の海から

 

 

注釈

 1. 原文では「Thing」。船に寄せる波など、海を魔物のように例えて使っているようだが、訳ではとりあえず「そいつ」とした。
 2.  原文では「He]。宗教を語る文脈で神を指すのだが、その神が、自分の考えているそれとは相当離れていると場合に使用されるらしい。「魔神」とか、いろいろ考えたが、上手く訳せないのでとりあえず「神」とした

※ 訳者はあまり英語が得意ではありません……。なので、誤訳、珍訳もあるかと思います。とりあえず努力をかってください。また、正確さを若干犠牲にしても、読みやすさを優先したつもりです。

※ 最後に、この翻訳は、最初自分でやったのですが、あとでアルゴノートというヴェルヌのファンページを運営されてるsynaさんが、試訳を見せてくださいました。それを全面的に参考にして、校正しました。まだ決定稿ではありませんが、おかげで酷い誤訳は減らせたと思います。どうもありがとうございました。

 
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