| ウィリアム・ホープ・ホジスン(Willam
Hope Hodgson)は、1877年11月15日、イギリスのエセックス州ブラックモア・エンド村において、牧師である父サミュエル(Samuel)と母リジー(Lizzie)の間に、十二人の子供の二番目の子(うち三人は幼児期に死亡)として生まれた。牧師である父サミュエルは雄弁で魅力的な人物だったが、教義上の思想、解釈の相違などから国教会側としばしば対立した。そうした人物が教会側から良く思われるはずもなく、そのため例えばアイルランドの荒れた海岸地帯であるゴールウェイのような辺境が故意に選ばれ、たびたび赴任させられることとなった。牧師になってから死ぬまでの21年間でサミュエルが赴任した地域は11にも及び、つまり2年に1度は教区を移動させられていたということになる。最後の赴任先はランカシャーだったが、ここでは信徒の大部分が紡績工場の労働者だった。そういうわけだから、生活は常に苦しく、ホジスンは満足な教育を受ける事も出来なかった。
13歳の時、ホジスンはケント州マーゲートにあるマーガレット寄宿学校(Margaret's Boarding School)に入学することとなった。だが、ホープは「船乗りになりたい」と、学校をすぐに逃げ出してしまう。1891年のことである。後にホジスンの弟の一人であるクリスが語ったところによると、兄ホープは幼い頃から超自然的なものに惹かれていたということで、そうした嗜好が彼を海の神秘へと導いたのだろうか。あるいは、この時期には既にエドガー・アラン・ポーや、ジュール・ヴェルヌらの作品に親しみ、海への憧れを募らせていたのかもしれない。
逃走劇は、彼がすぐに捕まったため、あっけなく幕を下ろした。だが、生まれつき一途なホープは譲らない。最初、両親は彼が船乗りになることには反対だったが、最後にはその強い気持ちに根負けした。そして叔父の仲介のもと、ホープをアプレンチス(士官見習い)として、船に乗せてもらうことになった。これには、あるいは彼の父の健康が悪化していたことも関係があるのかもしれない。父のサミュエルは、咽喉ガンでその数ヵ月後にこの世を去ることとなったからだ。貧しい牧師だったから、早くに息子に職が見つかることはむしろ歓迎すべきことだと思えたのかもしれない。また、一説には父サミュエルとホープの関係がかなり緊張したため、叔父が二人を引き離すことが賢明だとして、船に乗れるように整えたとも言われている。いずれにせよ、ホジスンの学校教育はここで終了してしまう。
こうして1891年、ホジスンは晴れてアプレンチスとして海への第一歩を踏み出したが、夢にまで見た船員生活の現実は、彼の想像とはかけ離れたものだった。船員としての生活が始まって間もなく、ホジスンは水夫という職業に幻滅したが、それはやがて嫌悪にまで膨らんでいった。
ホジスンの言葉によると、最初の四年間の見習い期間で、彼が最初に下についたのは、自分より弱い立場の人間を虐待することを生きがいのようにしている、最悪のタイプの二等航海士であった。ホジスンはハンサムな優男といった風貌で、しかも小柄(5ft.4
1/2inほどだというから、165p程度か)だったから、格好の餌食となった。日ごとの余りの仕打ちに堪りかねて、ついには反逆を試みたこともあったが、相手は大人であり、「マスティフとテリアの戦いにも似た」有様で、散々な返り討ちに終わった。相手は、本来反逆など許されない自分の上司であり、しかも大洋に浮かぶ外洋航海の船の中で、乗っているのは荒っぽい船乗りばかり。泣いて同情してもらえるような場所ではなかった。追い詰められたホジスンが、自らの身を守るために、そしてあわよくば一矢を報いるために、身体を鍛え始めたのも自然な成り行きだった。
ホジスンは船内でボディービルを始めた。それは我流ではあったが、どうすれば最大の効果を挙げることができるかを真剣に考え、やがては筋肉の科学的作用の研究をするまでになった。そうして自他ともに認める屈強な肉体を手に入れた彼は、船を下りた後になって、自ら編み出したトレーニングについて、「サンダウ・マガジン」など、当時のボディービルの雑誌に発表するようになる。そしてそれがホジスンの、作家としての第一歩につながってゆくことになる。
4年間の見習い期間を終えた後、三等航海士としてさらに4年のキャリアを積み、ホジスンの船員生活は都合で8年間に及んだ。後になって船乗りの生活を振り返り、「酷い食事に酷い扱い。給料も安く、将来性もない。船での生活は、侘しくて、ただ疲れるだけの、報われない人生だ」とまで言い切ったホジスンは、しかしその船での生活から、後に彼にとって大きな意味を持つ、多くのものも身につけた。強い肉体と不屈の精神、船乗りとしてのリアルな体験、耳にした海の怪異話、ニュージーランド沖で、仲間を鮫の群れる海から救ったことによる王立人道協会(Royal
Humeine Society)よりの銅メダル、それに写真という趣味、などである。それらが、結果的にはホジスンの「陸」での生活の糧となった。
1898年、船を下りたホジスンは父の最期の赴任地だったランカシャー州のブラックバーン(リバプールの北東にある、綿工業で栄えた町)に戻り、翌1899年、その経歴とボディービルで鍛え上げられた肉体をもって、「W.H.Hodgson's
School of Physical Culture」を開き、地元の警察署の若者らが生徒となった。
ところでその翌年、ある有名なエピソードが生まれた。
「フーディニ事件」である。
1902年10月24日、地元のパレス劇場に巡業に来た「奇術師」フーディニの縄抜けに、ホジスンは「Northern Daily Telegraph」紙を通じて挑戦状を叩きつけたのだ。フーディニは了承し、二人の対決が実現した。だが、当時24歳だったホジスンは、いささかやりすぎた。学校のPRの目的もあったのかもしれないが、多分に若さのせいだろう。フーディニが持ってきた足枷を使うことを拒み、自ら持参した枷を使用した。しかも、当時イギリスで最も力持ちの男の一人とまで言われたその肉体を振り絞り、自らの身体に対する知識までも総動員して、無理やりに彼を縛り上げたのだ。結局、フーディニは二時間近くも悪戦苦闘して、痣だらけ、血だらけの、息も絶え絶えの姿でやっと脱出した。だが、その脱出には仲間の助けがあったに違いないとホジスンは後に述べている。とはいえ、その哀れな姿に、観客は逆に同情した。ホジスンにしてみれば、生意気なイカサマ師の鼻をあかしてやろうという気持ちだったのかもしれないが、この一件はホジスンにとって、名声というよりも、いささか悪名として残る事になった。ちなみに、フディーニはこの夜を「恐るべきホジスンの夜」と語り、後々までブラックバーンへの巡業の際には嫌な思いをすることになった。
ホジスンは、翌1903年には「W.H.Hodgson's School of Physical Culture」から退く。経営が悪化したからということだが、それにはあるいは先の一件がある程度関係しているのかもしれない。だが、それと前後して、ホジスンはボディービルの雑誌に寄稿を始めているし、そこからライターとしての収入を得たことによって、作家として立ちたいという気持ちが頭をもたげてきたというのもあるのかもしれない。というのも、学校自体は、彼の名前を外して、その後もしばらくは存続したようであるからだ。
同時に彼は、兄であるフランク(Frank)を介して、船員時代には既に写真という趣味に親しむようになっていたが、1897年から翌98年の航海の中で撮影した何枚もの海の写真、とりわけ嵐の海等の写真を手彩色のスライドにして投影し、それを元に講演をするということも行っていた。当時はまだ写真というものもそれほど普及はしておらず、しかも嵐の海や稲妻の写真などは珍しかったため、人々はかつてのホジスンが海に憧れたように、大いなる興味を持ってホジスンの話に耳を傾けた。そうした講演からの収入も、彼の生活を支える糧として大きな比重を占めた。スライドは、残念ながら現在は残っていないが、こうした仕事は、ホジスンにとって、彼を船乗りから文化人へと生まれ変わらせてくれるものに思えたのではないだろうか。
だが、それだけでは彼の収入としては十分ではなかった。ホジスンが自分の職業として選んだのは、作家だった。もともと船にもブルワ=リットンの小説などを持ち込んで読んでいたホジスンのことだから、真っ直ぐな気持ちと言える。それに、学校もろくに出ていない自分が、独学で勉強し、ボディービル雑誌とはいえ文筆で収入を得ることが出来たこと、それに講演でも多くの評価を得ていることは、大きな精神的な力になったに違いない。
そうしてホジスンは熱心に小説を書き始めた。ボディービルが我流であったように、独学で、手探りで、である。
そうして1904年に処女作「The Goddess of Death」が「Royal Magazin」に、続いて1905年には「A Tropical
Horror」が「Grand Magazin」に掲載され、ここにホジスンはついに作家としての道を歩き始めた。「The Goddess of
Death」は、カーナッキものの先駆とも取れる作品だが、読み物としてはさほど見るべき作品ではない。だが、次の「A Tropical Horror」は一転してホジスンにしか描き得ない海洋ホラーであり、サルガッソーものの先鞭だった。この作品が好評を得たことで、ホジスンは手ごたえを感じたに違いない。この頃、彼は英国作家協会(The
Society of Authors)に加入し、H.G.ウェルズやバーナード・ショウらと親交を結び、プロの作家としての心構えを学んだようだ。だが、その後の道は決して平坦ではなかった。出版社がホジスンの作品をすんなりと買ってくれることは稀で、大抵は送り返されて来た。だがホジスンは諦めなかった。送り返されてきた原稿を、さらに別の出版社へ送りつけた。こうして、運がよければ掲載が決まったが、決まらなければ延々とそれが繰り返されることになった。kane氏によると、そうした往復が四百回近くに及ぶこともあったという。しかもそれはイギリスだけではなく、アメリカにまで及んだ。ホジスンの短編は、全部で100篇以上あるが、似たような話がいくつかあるのはそうした改稿の結果でもある。kane氏も言っていたが、まさに不屈の精神である。優しく繊細で潔癖症な一面もある一方、思い込んだらどこまでも諦めないホジスンは、フディーニではないが、敵に回したくはない人物ではないだろうか。
短編と平行して、ホジスンは長編にも手を染めた。書かれた順は、必ずしもその通りではないようだが、1907年には初の長篇「The Boats
of the “Glen Carrig”」をChapman & Hall社から、翌1908年には同社からやはり長篇「The House
on the Borderland」を、さらにその翌年にはStanley Paul & Coから長篇「The Ghost Pirates」を出版した。これら三つの作品が、いわゆる「ボーダーランド三部作」と呼ばれるもので、この呼称は「The
Ghost Pirates」の前書きでホジスン自ら命名したものである。そして1912年には、二十万語にも及ぶ、彼の最長の長篇であり、また問題作でもある「The
Night Land」を出版した。だが、短編の一部が評判を得ていたのに対して、彼の長編はどれをとってもほとんど黙殺に近い評価しか得ることが出来なかった。最大の自信作であった「The
Night Land」が黙殺された後では、ホジスンはもはや長編を書く意味を見出せなかった。ホジスンには、収入が必要であった。諦めは悪いが、一旦決断したことには迷わず真っ直ぐに突き進むのはホジスンの性格である。彼は長編を書くことを、とりあえずはすっぱりと諦めて、パルプ雑誌に売れる短編を書きなぐるようになった。イギリスで売れた作品は、少しだけ変えて、アメリカでも売るということも盛んに行った。「Night
Land」が失敗に終わった翌1913年2月26日に、同い年のベティ・ファーンワスと36歳で結婚したが、その生活のためでもあるだろう。ちなみにベティは、ホジスンが作品を発表したことのある雑誌「London
Magazine」や「The Red Magazine」を出していた出版社、アルフレッド・ハームスウォース社(Alfred Harmsworth's
Publications)の社員で、「Home Notes」という女性向けの雑誌に関わっていた。また、彼女は詳細なホジスンの作品の売り込み記録を残しているが、これは今では重要な資料となっている。
結婚はしたものの、文筆での生計は思うようには立たず、二人は生活費の安い南仏のコートダジュールへ移住することとなった。この年、Eveleigh
Nash社より「Carnacki, the Ghost-Finder」が出版されたものの、やはりほとんど評価はされなかった。
そうした中で、時代は第一次世界大戦に突入する。自らを男らしい男として恃んでいた彼は、早速イギリスに戻り、妻をチードル・ハルム(cheadle
hulme)に残して、兵士として志願し、参戦する。1916年に一度は頭に大怪我をして除隊となったものの、回復するとすぐに再び参戦した。実は、その時には実はもう既に兵役の年齢を過ぎていたのだが、それでもホジスンは諦めず、義勇兵として参戦したのだ。これには、もしかしたら金銭的な目的もあったのかもしれない。
そして運命の1918年4月17日。ホジスンは陸軍代11砲兵隊の一員として従軍中、ベルギーのイーブル近くの戦線で、ドイツ軍の砲弾によって戦死した。享年40歳。最終階級は中尉。彼の死を報じたロンドンタイムズには、所属部隊の司令官のコメントとして、「積極的で快活明朗、勇猛果敢だった」という一文が掲載されたが、もし彼の魂がその言葉を見ることが出来たとしたら、どう言っただろう。
戦場から母に宛てた最後の手紙で、ホジスンは戦場のむなしさや残虐さに触れ、こここそが本当の「ナイトランド」であり、世界の終末の光景であると述べている。そして、無事に帰ることが出来たら書かねばならない作品があると伝えている。それはきっと、ホジスンにとっての真の黙示録になるはずの作品であったのだろう。だが、その願いは叶わなかった。
ホジスンの遺体は砕け散り、親族のもとには戻らなかった。ホジスンは、ベルギーの戦没者たちの共同墓地『TYNE COT MEMORIAL』に、その魂だけが葬られた。ホジスンの名前は、多くの戦没者の名前とともに、墓碑に刻まれている。(画像上)また、英連邦戦争墓地委員会(the
Commonwealth War Graves Commission)のウェブサイトに、彼の名前の記載を見ることが出来る。(画像下)

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